「孤独」と「創造」

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セブ島に来て、一人で過ごすことが多くなった。

 

一人で過ごすというのは、なかなかに孤独だ。

周りはみんなフィリピン人で、話している言語も理解できず、まともに話し合える相手もいないとなると、その孤独感は日本で一人で過ごすのとはまた質の違ったものになる。

そんな中で過ごしているうちに、だんだん、自分の中で「自我」というものが大きくなっていることに気付かされる。

 

 

1人でいる時には、自分の意識の100%は自分に向いている。それが、誰かと一緒に時間を過ごす時、自分の意識のいくらかが「相手」に移ることになる。

僕のイメージでは、この意識の配分は「相手」の人数にしたがって変化していき、人数が増えるにつれ、「自分」への意識の割合は減少していく。

 

 

誰かと一緒に時間を過ごすことによって、孤独は薄くなっていき、気がまぎれる。孤独と対面しているより、誰かと対面することで孤独から身体を反らしていた方が、圧倒的に気は楽である。

しかし最近、孤独を遠ざけると、自分へ意識を向けることで見えてくる「自我」も、同時に薄くなってしまうのではないかと、危惧している。

 

「芸術家は、孤独でなくてはならない。芸術とは極限まで高められた自我を作品として表す行為であり、自我を高めるためには、外部からの情報を可能な限り遮断することが不可欠であるからだ。」

 

大学院時代、そんな話を誰かから聞かされた(別に芸術家を目指しているわけではないのだが)

この話を聞いた時にはイマイチぴんとこなかったが、ひょっとすると、いま僕が感じている「孤独を遠ざけることで薄くなるもの」が、創造となにか関係しているのかもしれない。

 

「孤独」は恐ろしい怪物で、時にそれは人の命を奪うことさえあるけれど、この怪物と共存することでしか得られない「なにか」も、どうやら存在するらしい。

 

 

日本の大企業の会社員として働く上で求められるのは、上から降ってくる仕事をミスなく正確に素早くこなすことのできる人間だと聞く。

これを大雑把に、語弊を恐れず言い換えると、大きな機械を正常に動かすための「精巧な」ネジになることのできる人こそが、多くの企業にとっての理想的な労働者だということだ。

そういった労働者に「創造」は求められない。そのため、孤独など味わう必要もない。

To Do Listに並べられたことを、プロトコルにしたがって効率的に処理するのに、創造する必要性など毛ほどもない。

あるのは「如何に仕事をミスなくこなすか」という工夫のみだ。これは、決して創造じゃない。

忙しい日々に忙殺され、使い古されたティーパックのように薄まった自我の中で生きることは、果たして幸せなことなのだろうか。

 

自我を自覚することなく年老いていくくらいなら、いっそ孤独の中に生きた方が幸せなのではないか。。

最近、そんなことを適当に思っている。

 

 

ごちゃごちゃ書いたけど、

ようは、働きたくないって話。

 

 photo by Alice Popkorn

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2 件のコメント

  • 私は孤独が苦手で、大企業の歯車として60歳の定年まで働き、第2の人生は日本の柵から解放されて、自分らしく、自分本位に、勝手気ままに生きて見ようと定年離婚をし、古女房や子供3人、孫4人と離れて、セブの地で趣味のダイビングやゴルフ、ダンスやソフトボールとスポーツ中心の生活を送っています。
    日本人の友人は数名で日常生活では99%フィリピン人との対話で生活しています。

  • 周りのフィリピン人の方々は雑談の時にタガログ語で話をされるのですね。