イライラしないことが美徳とされる日本から出て気付いたこと

PIC_4027-22/18 タンザニア、ンゴロンゴロ国立公園にて撮影

 

この旅に出る前までほくは、イライラするというのは百害あって一理なし、だと思っていた。

実際googleで イライラ と検索すると、イライラしないための心の持ち方といったイライラすることを避けようとするための情報ばかりで、イライラすることを肯定するような記事はなかなか見つけられない。

きっとたくさんの人が、どうすればイライラせずに生活していけるか模索しているのではないかと思う。

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イライラすることの是非

 

じゃあイライラするというのは果たして、百害あって一利無しな悪の感情なのだろうか。

 

否!

 

僕は、イライラするというのはなくてはならない、とても大切な感情の一つであるとこの旅の経験を通して確信している。

この旅中、イライラするということは他のどの感情より、僕を助けてくれた。数えきれないほどの悪徳商人から、僕を守ってくれた。

 

日本人であれば一度は聞いたことがあるかと思うが、海外において日本人はよくカモにされている。

なぜなら、高い金額をふっかけてもへらへらしながらほいっと払って、おまけに「サンキュー!」と感謝までする、お人好しということで有名だからだ。(実際に途上国の多くで、日本人である僕の顔を見るなり獲物を見つけた肉食獣のような勢いで僕に駆け寄ってくる物売りがたくさんいた。)

たぶん日本では「イライラせず、笑顔で相手に応じる」ということが、一つの美徳としてもたれているのではないかと思う。というか僕は、そういう美徳を持っていた。

 

旅をはじめた頃は、観光客をカモとする物売りにニコニコしながら答えていた。しかし彼らは、僕たち観光客がニコニコしているかぎりなかなか引き下がらない。なぜなら、ニコニコしている人間からは攻撃性が感じられないからだ。「こいつ、ちょろそうだな」と思われてしまうわけだ。

一方で、旅の後半僕が簡単にイライラするようになってからは、物売りが引き下がるのが早くなった。

 

イライラしないことによる弊害

 

イライラしないというのは、特に海外を単身旅するにはとても危険なことだ。

人間は「あ、こいつイライラしてるな」と感じられる、敏感なセンサーを持っている。

その理由はきっと、イライラしている人間に刺激を与えるのは危険だからだ。危険だから、それを感じられるように、危険を避けられるように、防衛本能として「イライラしている人を避けーるセンサー」が、身体の深いところにインプットされているのだ。

とするとつまり、イライラするというのは「自分は今、攻撃的になっていますよ」ということを電波のように周囲に発し、相手のセンサーに自分の攻撃性を伝える、言葉を必要としない世界の共通言語のようなものであるともいえる。

それなのにそんな優秀な感情を持たずに、観光客をカモにする悪人が多く存在する海外へとのこのこ出かけたら。

いったいどんな目にあうか、容易に想像がつくだろう。

 

ここまで、イライラすることは海外旅行で役に立つと書いてきたけど、たとえ日本国内での日常生活であったとしても、きちんとイライラしといた方がいいと思う。

そして特に、イライラする原因が相手にあるのなら、素直にそれを伝えた方がいいんじゃないだろうか。とも思う。

だって、イライラさせられているのにそれを隠して「えへへ」なんて愛想笑いを浮かべているから、相手をイライラさせていることに気付かせてあげることができなくて、結果としてその人に、相手をイライラさせるような行動を続けさせてしまっているのだから。

これでは、自分はイライラを蓄えるばかりでしんどいし、相手はどんどん人から嫌われるしで、お互いが不幸である。

もしイライラさせられたとき「ちょっと、それは違うんじゃないですか」と相手に伝えることができれば、その瞬間は相手をしゅんっとさせてしまうかもしれないけれど、ゆくゆくは、その人の、相手をイライラさせるような行動をなくせるかもしれない。

これは、自分にとっても、また相手にとっても、喜ばしいことだ。

 

 まとめ

とまあダラダラと書いてきたけど、つまり僕が気付いたことは、イライラするというのは自然な感情で起こるべくして起こっているのだから、それを無理に避けようなんてことは考えず、思う存分イライラいておいたらよかったのだということ。

イライラしないようにするというのは、牙を捨てて草食動物を演じるようなもので、それではまわりに掃いて捨てるほどいる肉食動物に食べられてしまう。

自分の感情を受け入れて、イライラしながらも心穏やかに日々を生きていきましょう。